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私の農業観

子供の頃の話

私は子供の頃(昭和60年頃)、川での魚捕りが大好きで、父から魚が生息する小川の場所を教えてもらって弟とよく出 かけたものでした。膝ぐらいまでの深さ の小川に魚がいっぱい泳いでいて、そーっと川岸へ忍び寄り岩陰から釣り糸を垂らし、フナを釣ったものでした。そして石の下や川岸の隙間に忍び込んだハヤを 手でつかむのです。指先で魚を追い込んだ時のあのピクピクとした感触が今でも忘れられません。本当に楽しかったです。しかし父が子供の頃(昭和30年頃) には確かにハヤやサワガニ、田ブナなどが生息していたはずのいくつかの小川で、私達はドジョウすら見つける事ができず腹立たしい気持ちでいっぱいだった事 を覚えています。
それは田畑に使う農薬や化学肥料の影響、農地や道路造成に伴う河川のコンクリート三面張り、家庭や工場から流れ出る汚水の影響が原因で小川の生き物たち が姿を消してしまっていたのです。そのような「なぜ小川から魚がいなくなったんだろう?」という疑問が、農業に興味をもつ出発点だったような気がします。

私の農業

私の考える「やりがいのある仕事」とはもちろん生活していくための収入や余暇は必要ですが、大切な事はどのような職業であろうとも個性を活かして自分なりに社会に果たせる役割を担うことが出来るかどうかだと考えています。そして夢を持てることです。
生命の源は水です。都市と農村とのつながり、人と人とのつながり、そして共に生きる生き物達への愛情…すべては国土環境の中で「川という線」で結びつき 合った大切な関係である事を忘れてはならないと思います。しかし、この「川という線」が少しずつ断ち切られ、国土環境全体の機能に大きな支障をきたし、 今、日本社会は様々な問題に直面しているのではないかと思います。私は淀川の源流で生活を営む者として、「淀川水系という線」で多くの生命たちと結びつき 合っているということを農業を通じて大切にしていきたいです。そして将来、私達の里山に魚たちを呼び戻すことが私の果たすべき役割だと思っています。
むかし、この川を通じて月ヶ瀬のお茶は、舟で下流の京都や大阪に運ばれたそうです。月ヶ瀬という茶産地の歴史が、川という線とともに発達してきた事も、興味深いことです。
農業は食べる(飲む)人がいて、はじめて成り立つ職業です。私はそのような農業ができる事への感謝の気持ちと誠意の心をこれからも大切にしていきたいで す。そして農業を通じて自然や人から学ぶ事はたくさんあります。これからも人と自然、人と人とのつながりの中でいっしょに学び合って、皆が元気いっぱいに いつまでも暮らし続けられる環境をつくっていければいいな、と思っています。

耕作放棄水田から学んだ教訓を茶山で活かす

私 が子供の頃に月ヶ瀬の谷地(山間の谷間)に広がっていたほとんどの水田が、現在では耕作放棄地となり、イノシシの住処(獣害の温床地)と化し、荒廃地と なってしまいました。また、私達が子供の頃には、水田の用水路や隣接した小川にはメダカやドジョウ、カメなど、数えきれないほどのたくさんの生き物が生息 していましたが、現在、崩壊した用水路や草に覆われた小川から、そのような生き物たちの姿は消えてしまいました。「トンボ」の語源は「田んぼ」であるよう に、昔から人間と馴染み深かったメダカやトンボ、ゲンゴロウなどは、農業の営みとともに進化してきた生き物であり、農業の営みがなくなれば姿を消していく ということが、耕作放棄水田の教訓からはっきりと分かったことです。

いっぽうで月ヶ瀬地区では1980年頃から国営事業等によって作業効 率が良い大規模な茶畑がたくさん出来たことや、近年は離農する茶農家が増えてきたことから、昔ながらの農作業が困難な傾斜地茶園である茶山の荒廃が進んで います。「棚田」と同じように、「茶山」も、茶を生産するだけの場所でなく、子供の頃から身近にあった月ヶ瀬の原風景であり、茶山とともに進化してきた 月ヶ瀬ならではの生き物が生息するなど、地域の中で多面的な役割を果たしてきたと私は考えています。実際、耕作が放棄され、水田や畑、水路や農道の草刈り が出来なくなったことで広範囲でジャングル化し始めた時期と、農産物を荒らすイノシシが急激に増えた時期とは重なります。
「農業は自然とのバランスをとりながら進化してきた」「いちど荒廃してしまった農地は簡単には元には戻せない」「農業の営みは様々な分野に多面的・公益 的・相乗効果的な機能を果たしてきた」といった耕作放棄水田の教訓を活かしていくことが地域で果たす大切な役割のひとつであると考えています。

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