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学生時代の卒論のテーマから、耕作放棄茶園の今後について考える

地域の山間の中には、「昔、山を開墾して茶山として活用されていたが、耕作されなくなり、現在は笹林となっている場所」がたくさんあります。こういった「耕作放棄地」と呼ばれる場所については、私の大学時代の卒論のテーマで、先生に指導を戴きながら学会発表もしました。【耕作放棄水田における土壌・土層構造の変化と植物遷移(農業土木学会誌 第70巻第3号より)】。論文では、耕作放棄によって、永年続けられてきた農業の営みと自然とで保たれてきた平衡状態が崩れると、植生遷移と畑の崩壊が始まるということが再認識されました。そして、耕作放棄後は、やがては森林化が進行する遷移を辿ると推測しましたが、「森に戻る」のが良いのか「永年続けられてきた農耕と自然との調和」を即座に断ち切ってもよいのか等、十分な論議が必要であるところで締め括っていました。

昨年度、大学を卒業して、ちょうど20年が経ちましたが、自然栽培という視点でお茶づくりを進めていく中で、月ヶ瀬地区でも進行した畑地の耕作放棄地を活かしたい一つの方向性がみえてきました。

 

月ヶ瀬地区の茶山の耕作放棄地が増えた要因について考えてみる

一つ目の要因は、土質の違いにより、煎茶の色合いに違いが出たことによるものです。月ヶ瀬地区の中心を流れる名張川は、東西二つの産地に分けていて、両者それぞれの産地で出来る煎茶の特徴を比較した場合、西の産地(左岸)の大部分では鮮やかな青味のある色合いになる傾向があるいっぽう、東の産地(右岸)では赤味を帯びる傾向のある区域がたくさんあります。この色合いの違いは、砂質土か粘質土かという土質の違いとその土に含まれるミネラルの違いに主な要因があります(詳しくはこちらを参照)。このようなことから、1970年代以降、一般市場で求められる品質(茶の色あい)にマッチしなかった東の産地の粘質土壌の区域では、早い時期(約40年前から)から耕作放棄が進んだ傾向にありました。因みに、当園の茶園は月ヶ瀬地区の東の産地の地域内に点在しています。

二つ目の要因は茶園での作業効率が良いか悪いかです。1975年から開始された国営大和高原北部土地改良事業で区画整備された茶畑が新規造成され、主体となる茶の生産現場が、茶山から茶畑に移行していきました(茶山と茶畑については、こちらを参照)。さらに2000年頃から普及し始めた乗用型摘採機の導入が可能であった茶園は活発に耕作が継続されましたが、導入が不可だった茶園は耕作が辞められていく傾向にありました。

三つ目の要因は、生産者の高齢化や一般市場での茶価の低迷、後継者が少ないことで、これは近年の傾向です。

その他にも様々な要因がありますが、以上、考えられる主な三つの要因をあげました。ここで考えられることは、一般市場の規格に沿うお茶が出来なかったり機械化に対応出来る立地条件でなかったため、耕作放棄が進んだということです。

茶園の耕作放棄後の植生遷移について考える

月ヶ瀬地域では、茶園管理を辞めて放置した場合、隣接部から侵入した笹根が活性化し、植生が茶から笹へと遷移していく場所がたくさんあります。そういった場所では、耕作放棄後10年も経過すると、笹が優占種となり、1.5~3m程の高さの笹が生い茂ってくる傾向にあります。地域内では耕作放棄後、40年経過しても笹が優占種として生い茂っていることが確認できますが、耕作放棄後40年以上経過した茶園は少ないので、その後どれぐらいのあいだ、笹が優占種として生い茂り続けるのかは、観察が必要です。そして、さらに耕作放棄地として年数が経過した場合、いつしか極相林へと植生が遷移していくものと推測しています。

ここで考えられることは、耕作放棄されて40年経過しても、まだまだ森には戻らないということです。ジャングル化した笹が生い茂っている期間が非常に長いということです。

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耕作放棄後、40年経過した茶山。端の方に僅かな茶樹が残っていますが、笹が優占種となり、この状態が30年以上続いています(コイキビロ 2017年3月撮影)

 

耕作放棄地と、地域での農業や暮らしとの関係性について考える

私が子供の頃は、自宅周辺の畑や水田で作物がつくられていて、土手等も草がきれいに刈られて見通しが良く、今から思えばイノシシが隠れる場所が無かったと思います。しかしながら、2000年以降、月ヶ瀬地区ではイノシシを見かけるようになり、現在では、電気柵等の防除が無ければ、農産物を収穫出来ないような状況となっています。

ここで考えられることは、耕作放棄地が一気に増えた時期と、獣害が出始めた時期が一致していることです。人里近くで点在している、人間が入ることが出来ないほど、ぎっしりと生い茂った笹林は、イノシシの住処(アジト)となり獣害が拡大する一因となっていると推察します。

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笹林の中につくられた獣道(獣トンネル)(写真中央)。この奥に、イノシシのアジト(住処)がありました。茶山での耕作が辞められて40年程経過したゲンダラ3。(2017年1月)

また、耕作している畑や民家の隣接部が笹林になれば、通気性(風通し)や陽当りが悪くなり、隣接部からの笹根の侵入等によって、農業の営みや暮らしにも支障をきたすようにもなります(こちらも参照)。

いっぽう、笹は悪い印象になりがちですが、地下部に張り巡らされた笹根は、植生遷移の期間、土壌崩壊などの災害が起こりにくいように地表面を守る役割もあるということも付け加えておきます。

耕作放棄地の今後を考える

耕作放棄地の植生遷移という観点から考えると、笹が優占種となり笹ジャングルとなっている期間が非常に長い(40年以上)ということです。森に戻るまでの植生遷移の期間に、これまで農村の暮らしの中で、入植して以来、人々が経験したことがない様々な問題を引き起こす要因となっているのではないかと推察します。言い換えれば、平衡状態を保っている森林を開墾(開拓)するときは、大きな責任があるということです。

私が就農した2001年の頃は、先祖代々の土地で農業をしていれば良いという感覚でしたが、もはや、それだけでは地域で営む農業や暮らしが成り立たない時代となりました。だからこそ、これからは茶業という視点から耕作放棄地を活かしながら地域全体を考えた農業に取組んでいくこと(農村計画)が、必要な時代になったと考えます(「2018年は月ヶ瀬健康茶園株式会社元年」)。

1960年代(高度経済成長期)以降、慣行栽培を前提条件としたことで、条件不利地となった場所が耕作放棄茶園になったという流れになります。しかし、自然栽培を前提条件として考えた場合、耕作放棄茶園の中にも条件有利地となる場所はたくさんあります。すなわち、その場所の立地が条件有利地か不利地かという基準は、前提条件があってこそ決まるもので、前提条件が変われば、条件不利地とされていた場所が、条件有利地となることも有りゆるということです。そのようなことから、自然栽培を前提とした場合、条件有利地となる耕作放棄地に、新たな取組みとして、2017年から茶の実を植え始めました。(経緯はこちらです「2017年は実生茶園づくり元年」「実生茶の苗づくりを試みる」)。

これまでは限られた面積の中で如何にして収穫量を増やすかという技術が追究されてきましたが、これからは広い面積を耕作することも必要(可能)な時代になりました。社会的背景からみた前提条件も大きく変わり、多様な時代になったということにもなります。地域全体をみながら、複眼的な視点から、農業の営み(暮らし)と自然との調和(平衡状態を保てる)を考えた取組みを意識すれば、いろいろな方法での耕作放棄地の活用がみえてくると思います。

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